カテゴリー: 「昨日の敵」が見た日本

『ネットワード・インターナショナル・サービス(Netword International Services Pty Ltd.)』会長、PCA『パシフィック異文化教育アカデミー(Pacific Cross-Culture Academy)』学院長。元『スターズ アンド ストライプス』記者、ハロルド(ハル)・アレン・ドレイク氏による「読売ウイークリー」終戦企画『「昨日の敵」が見た日本』の連載記事、エリザベスサンダースホーム・安保闘争、李香蘭・226事件、硫黄島、零戦・風船爆弾…著者Hal A.Drake『日本の戦後はアメリカにどう伝えられていたのか』日本語翻訳の契機になりました。

  • 「昨日の敵」が見た日本[vol.04]

    『ネットワード・インターナショナル・サービス(以下、Netword)』会長、『パシフィック異文化教育アカデミー(以下、PCA)』学院長「ハロルド・A・ドレイク」がメディア掲載、取材等で取り上げられた記事を紹介致します。
    以下、掲載記事


    終戦企画 連載4
    『昨日の敵』が見た日本
    星条旗新聞元記者ハル・ドレイクの証言

    零戦は「米機のマネ?」に大反論
    第二次大戦中、連合軍に脅威を与えた「ゼロファイター」(零戦)。
    終戦の年、米本土を襲った風船爆弾。
    彼は、終戦から30年以上がたった1976年、類を見ない二つの平兵器にまつわる”秘話”を追った。

    構成/本誌 松浦一樹

    世界最強の戦闘機誕生

    米カリフォルニア州で生まれ育ったドレイク記者にとって、ハワード・ヒューズの名は、幼いころからなじみが深かった。「世界一の大富豪」と呼ばれた米国の実業家で、映画製作者、飛行家としても知られ、ハリウッドの大物女優たちと浮名を流したプレーボーイでもあった。日本でも昨年公開された映画「アビエイター」の主人公がヒューズ。映画にされてしまうほどの伝説的な男だった。カリフォルニア州には、ヒューズが経営する掘削機メーカー「ヒューズ・ツール社」があって、ドレイク記者の親類も勤めていた。それだけに、よく聞く名前だったのだ。ヒューズは1976年4月、死去したが、その直後に報じられたあるニュースが、ドレイク記者の目にとまった。「ゼロファイターはヒューズがつくった飛行機の盗作だった」と日本が誇った零戦の”名誉”を傷つける内容だった。

    写真:Yomiuri weekly No.68
    写真:零戦を設計した故・堀越二郎さん(三菱重工名航提供)

    ドレイク記者は真偽を確かめようと、当時、日本大学で航空力学を教えていた零戦生みの親、堀越二郎さん(当時72歳、82年死去)に会いに行く。「そんなバカな」というのが堀越さんの答えだった。ヒューズは戦前の37年、自社(ヒューズ・エアクラフト社)製の飛行機H1を自ら操縦して、ロサンゼルスからニューアーク(ニュージャージー州)までを7時間28分で飛行し、米大陸横断の最速記憶を樹立していた。ヒューズの死が伝えられた後に報じられたところによると、日本は大陸横断が成功するや、H1の購入を申し入れたが、ヒューズが拒んだらしい。そこで、日本は極秘に機体を撮影し、太平洋戦争の初期に、連合軍のあらゆる戦闘機を打ち負かした、あの画期的な戦闘機「ゼロファイター」のひな型にしたというのだ。「ヒューズ氏がそんなことを言っていたのだとしたら、誠に非紳士的だし、失礼な話だ」と堀越さんは憤慨する。零戦の設計はあくまで純日本製、つまりは、堀越さんの手によるもの、というのだ。堀越さんは旧東京帝大で博士号を取得して、29年に卒業し、現在の三菱重工業に入社した。当時、航空機製造部門のある名古屋の工場では、欧米の技術者が設計や生産を担っていた。しかし、極秘で空母艦載機の開発を進めたい旧日本海軍の要求で、外国人が解雇されると、堀越さんたち、日本人技術者にお鉢が回ってきた。

    物量作戦で敗れた日本

    零戦の前身は、まだ複葉機が主力だった米英から「革命的」と見られていた単葉機一九六式艦上戦闘機」。これも堀越さんの設計だ。堀越さんは、その飛行速度や航続力をさらに向上させ、「零式艦上戦闘機」(零戦)が40年、正式に誕生した。しかし、旧海軍が新型機に求めた航続力、操縦のしやすさ、高速飛行の代償は大きかった。軽量化を実現するため、パイロットと燃料タンクを守る”鎧”、つまり機体の強度を犠牲にせざるを得なかったのだ。パイロットにとっては、それが命取りとなった。「米英と戦争になったと聞き、日本は”負け戦”に身を投じたんだと思いました」と堀越さんは語る。しかし、開戦時は、次々と連合軍機を撃ち落とす零戦を誇りに思った。ロッキードP38ライトニングなどが、よくその”餌食”となった。その後も、銃弾をはね返すシールドを取りつけ、機体を補強したいという堀越さんの願いは、かなえられることはなかった。零戦の性能が低下することを、旧海軍が嫌ったのだ。グラマンF4ワイルドキャットは、零戦に比べれば、のろまな戦闘機だったが、米軍パイロットの操作技術が欠点を補い、日本の最新鋭機を脅かす存在となっていた。堀越さんによれば、ガダルカナル島(42年)の戦況が、それを物語っていた。ミッドウェー海戦(同)で、日本は空母4隻を失い、無数の零戦機が撃ち落とされていた。

    写真:Yomiuri weekly No.68
    写真:第二次大戦中、連合軍を圧倒したゼロファイター(零戦)(Use with permission from the Stars and Stripes. ©Stars and Stripes.)

    「あの戦争に勝てないことは、わかっていた…」堀越さんはそうとわかっていながら、公言することはなかった。特攻隊が”敗北主義者”を許さなかったからだ。米軍の長距離爆撃機B29は零戦にずたずたにされながらも、日本の工業地帯襲った。B29を阻止する力は零戦になく、結局は撃ち落とされ、零戦は激減していった。米国では日本の3倍の戦闘機が生産されるようになっていた。戦力と数で圧倒され、旧日本軍のパイロットたちは散っていった。三菱の工場も攻撃され、焼け落ちた。「その時点で、もう戦いは終わっていました。」(堀越さん)英スピットファイア5B機、米グラマンF6Fヘルキャットなど、堀越さんは零戦の同世代機の名を挙げ、その性能を賞賛する。しかし、ヒューズ機については、こき下ろし、零戦の”先祖”であったという説を強く否定する。H1の写真を見せると、堀越さんはあきれ顔で、こう言った。「見てみなさい。機体よりも、エンジンのほうが大きいじゃないか。こんな飛行機を設計しろと言われても、私にはできない」旧日本海軍の主力戦闘機として太平洋戦争が終わるまで活躍した零戦は、最高時速が365キロ航続距離3500キロを誇った。当時としては”世界最強”の戦闘機だった。終戦までに1万機余りが生産されたという。苦戦させられた米軍にとっては、憎き相手だったはずだが、実は零戦に対する”畏敬の念”が非常に強い。最強の兵器が前にたちはだかったからこそ、「敵」も戦力に磨きをかけて、反撃に出た。戦った者同士だからこそわかるそんな感慨が、ドレイク記者の記事の行間から、ひしひしと伝わってくる。零戦が「米国機の盗作」であるなどとは、ドレイク記者も信じていなかっただろう。堀越さんは戦後、日本唯一の国産旅客機「YS11」の開発に携わった。外国に学びつつも、「日本独自」にこだわる技術者だった。


    女学生たちがつくった兵器

    旧日本軍は第二次大戦末期、米本土に向けて、風船爆弾を放った。時限爆弾や焼夷弾をつるした直径10メートルの風船を、偏西風に乗せて、はるか太平洋の向こうに到達させようとしたのだ。風船爆弾は、福島県勿来《なこそ》、茨城県大津、千葉県一宮の3地点から計約9000個が発射され、10個に1個が米国やカナダに達したと見られるが、実際に見つかったのは、400個に満たない。ほとんどが不発に終わり、軍事的成果は何なかったのだ。ドレイク記者にとって、風船爆弾による”米本土攻撃”は、「笑止千万な作戦」だった。戦場を左右することなく「米国人は戦中、風船爆弾が飛来したことさえ知らなかった」からだ。しかし、1976年になって、旧日本軍に動員された若い女学生たちが風船爆弾を製造していたと知り、ドレイク記者は驚く。それは米国では、あまり知られていない話だった。

    スアイ・カズコさんは、まだ17歳だった。ピクニックの食事を用意したり、留学にいそしんだり、こぼれる笑みを隠したり、戦中でなければ、彼女のしとやかな手は、そんな女性らしい営みのために使われただろう。しかし、時は44年だった。彼女が通っていた上野高等女学校(現・上野学園)は空襲の後、閉鎖され、”女性らしい営み”は、すべて否定されていた。彼女たちの任務は謎めいていた。和紙を、こんにゃくのりで張り合わせるという作業だった。こんにゃくは、すき焼きを美味にする食材だ。日劇や東劇など、大型劇場が作業場となった。彼女たちはもんぺ姿で働き、髪の毛はのりにつかないよう、いつもきつく縛っていた。カズコさんの家は作業場から30キロ離れていた。米軍の爆撃がおとなしい時は電車で通勤することもあったが、徒歩が多かった。夜明けに始まった作業が、日没に終わると、彼女は帰路を急いだ。家が焼けていないことを祈りながら。空襲警報が鳴れば、避難しなければならないし、家に帰っても安らぎはなかった。空襲で住宅街が丸焼けにされることも、珍しくはなかった。「それでも、私たちは何一つ不平を言いませんでした。お国のためだと思っていましたから」とカズコさんは話す。そんな女学生たちが製造していたものこそ、あの風船爆弾だったのだ。第二次大戦の末期、無人で、お粗末な飛行物体である風船爆弾は、米西海岸のほか、遠くはワイオミング、サウスダコタ、モンタナの各州やカナダなど、北米大陸のあちこちに落ちた。米国民はしかし、その存在さえ知らなかった。

    爆発で牧師一家が犠牲に

    米政府は本土が攻撃にさらされていることを察知しながら、パニックが広まるのを恐れて、情報を伏せたのだ。新聞社やラジオ局も、沈黙を守ることを政府に約束していた。着弾したいくつかは山火事を起こしたが、被害が広がることはなく、旧日本軍が期待した軍事成果はなかった。しかし、危険が全くなかったかというと、そうでもない。ワシントン州では45年3月、飛来した風船爆弾によって送電ケーブルが切断された結果、(長崎に投下された原爆のプルトニウムが抽出されることになる)核施設が3日間の操業停止に追い込まれた。日本は「原爆の製造を3日間だけ遅らせることに成功した」と言えるのかもしれない。同年5月5日には、米政府が恐れていた事態がついに起きた。オレゴン州の牧師一家が、森の中でピクニックを楽しんでいたところ、不発弾が爆発して、牧師の妻と子ども5人が即死したのだ。これは第二次対戦中、外国による攻撃で米国の一般人が犠牲になった唯一の例だ。米政府もこの件は、さすがに伏せておくことができなかった。こうして、米国民は風船爆弾の存在を知った。しかし、日本の”本土攻撃”を脅威に感じることはもうなかった。戦争の終わりが近づいていたからだ。カズコさんは終戦後も、米国に風船爆弾の犠牲者がいることを知らなかった。オレゴン州で母子6人が死亡したことを伝えると、カズコさんの目から涙があふれた。「かわいそうに。戦争は常に、弱者を傷つけるのですね」

    写真:Yomiuri weekly No.68
    写真:風船爆弾の発射施設が茨城県で見つかったことを1面トップで報じた星条旗新聞(1947年5月11日付)

    終戦の年の、日本の端午の節句に当たる5月5日に風船爆弾の犠牲になったのは、アーチー・ミッチェル牧師の家族だった。オレゴン州には、「ミッチェル・モニュメント」と呼ばれる慰霊碑が立っているという。ドレイク記者は、風船爆弾を間に挟んで、一方にカズコさんのような女学生がいて、もう一方にミッチェル牧師の一家がいたことを、第二次大戦中の「悲劇」と見る。だからこそ、「日本のみなさんに、ぜひ読んでいただきたい物語」と強く推すのだろう。ドレイク記者に、「あなたにとって、日本の戦後とはどういう時代だったのか」と尋ねたことがある。すると「私は一記者として、見聞きしたことをニュースとして伝えてきただけ」と返ってきた。ぶっきらぼうではあるが、星条旗新聞に約40年間、掲載されてきたドレイク記者の記事には常に「戦後日本」への温かいまなざしがあった。戦争を知らない日本の”若造”である記者には、それが答えなのだろうと思える。

    掲載記事:読売ウイークリー 第68巻 第36/37号 通巻3037号【読売新聞東京本社 2006.08.20/27】


    後日談:「読売ウイークリー連載記事の元になったハル・ドレイクさんの原稿が日本語翻訳されて出版されることになりました。」

    『日本の戦後はアメリカにどう伝えられていたのか』(著)ハル A.ドレイク(翻訳)持田 鋼一郎(2008 PHP研究所)

    写真:日本の戦後はアメリカにどう伝えられていたのか | ハル A.ドレイク
    Amazonで調べる

    ハル・ドレイク氏は、スターズ & ストライプス紙(『星条旗新聞』)最高の記者だ。
    「戦後40年間にわたりその新聞を最も多く開かせた人物であり、いま彼の文章を改めて目にし、その理由がよくわかる。熱い情熱と鋭い洞察力で描かれた本書は、戦後日本の復興と日米関係の発展の様子を市井の人々の目線で見つめたい方々にとって必読の書である。」――ロバート・ホワイティング

    「英国の詩人オーデンが言うように「歴史は敗者に嘆きの声をかけても、許してもくれないし、慰めてもくれない。」しかし敗者を理解することのできない勝者ほど社会を見誤るものはないだろう。格差の拡大する社会とは、敗者の理解することのできない勝者の理解する極めて危険な社会である。敗者にも礼をもって接する日本人の伝統は、いつの間にか消されたか、消えてしまったのだろうか。」(訳者あとがきより)


  • 「昨日の敵」が見た日本[vol.03]

    『ネットワード・インターナショナル・サービス(以下、Netword)』会長、『パシフィック異文化教育アカデミー(以下、PCA)』学院長「ハロルド・A・ドレイク」がメディア掲載、取材等で取り上げられた記事を紹介致します。
    以下、掲載記事


    終戦企画 連載3
    『昨日の敵』が見た日本
    星条旗新聞元記者ハル・ドレイクの証言

    かつての大激戦地、硫黄島で1984年、戦いの跡をたどった。同じ年、旧日本兵に兄を殺された同胞と会った。そこで彼が見たのは、なお残る”増悪”ではなく、戦後培われた日米の友情だった。
    構成/本誌 松浦一樹

    かつての激戦地で共存

    写真:Yomiuri weekly No.67
    写真:日米の激戦地となった硫黄島。米軍上陸用船艇の残骸の向こうに擂鉢山が見える(1968年 松永悳三 撮影)

    硫黄島の擂鉢《すりばち》山に星条旗を打ち立てる米海兵隊員の写真は、あまりにも有名だ。戦争を知る米国人が対日戦を思う時、必ず脳裏に浮かべる光景の一つと言っていい。米国人にとっては、対日戦の”激戦ぶり”と対戦での”勝利”を象徴する、歴史の一コマなのだ。日本本土空襲の足掛かりにしようと、米軍が硫黄島への猛攻を開始したのは1945年2月16日。その3日後には、海兵隊2個師団が上陸した。迎え撃つ日本軍の守備隊は2万人を超えたが、3月17日までに玉砕し、大多数が上陸した。迎え撃つ日本軍の守備隊は2万人を超えたが、3月17日までに玉砕し、大多数が戦死した。米軍にも約2万9000人の死傷者が出た。擂鉢山に星条旗がはためいたのは激戦のさなかの2月23日。ドレイク記者は激戦のさなかの2月23日。ドレイク記者は、旗を立てた米兵の一人に会ったことがある。擂鉢山を再訪したその男に。「殺されかけたかつての戦地に、なぜ戻ったのか」と尋ねると、こう答えたという。「殺される心配をしないで、あの山に向かって、もう一度、真っすぐ歩いてみたかった」そう聞いて、ドレイク記者は、戦後、日米間に訪れた平和をかみしめた。84年に硫黄島を訪れ、ある光景を目の当たりにすると、日米に戦争はもうあり得ない、と確信した。硫黄島守備隊の一員だったスギハラ・ゼンルイ陸軍中尉は、優れた日記を残していて、「戦争の歴史家」と呼ぶにふさわしい。45年2月26日に筆が止まっているが、戦死したのだろう。日記は、日本領土を制圧しようと迫ってきた外国人たちを、ののしっている。「砂浜を見下ろすと、数多くの軍艦が列をなし、上陸拠点を援護していた。忌むべき光景だ。見ていろ、今に抹殺してくれる」守備隊は確かに抹殺を試み、一部それに成功した。米兵の死者は6000人を上回った。この激戦の生存者たちと戦後生まれの世代は、遺恨を受け継いだのだろうか。

    戦場のソフトボール試合

    それから40年近くが過ぎて、かつての戦場からは、こんな声が聞こえてくる。「ゲッツ!球を擂鉢山まで飛ばすことはないぞ。ヒットでいいんだから」米空軍のジョン・ゲッツ下士官は三塁打を放って期待に応え、次打者のヒットで生還した。長打あり、ファインプレーあり、ヤジの応酬あり。米軍対海上自衛隊。日米いずれのベンチも、和やかなムードだ。硫黄島で、ソフトボールの試合のない週末は考えられない。恒例行事になって久しく、やめようという者は誰もいない。試合は14 – 5で米軍が制し、整列した選手たちは帽子を脱いで、お辞儀を交わした。日本式だが、米兵もこなれたもので、頭を下げても様になっている。その翌日、デービッド・ハーパート中尉は、ライバルの日本人とゴルフを楽しんだ。4ホールのコースがあって、そこをぐるぐると回りながら、ハーフ、または18ホールをこなす。この辺りでは今でも時々、薬きょうが見つかる。かつて、殺し合いの現場だった。米国はあの激戦から23年間、この島を”戦利品”として持ち続けた。返還後も、通信基地を残したが、日の丸の深紅が鮮やかな軍用機も舞い戻ってきて、「二つの国旗」が共存することになった。その地で、日本側の生存者たち(硫黄島協会)は今も遺骨・遺品の収集を続けている。まだ、約7000人の行方不明者がいるそうだ。硫黄島の数多い洞穴からは、帝国陸軍兵士の細長い軍靴や、防毒マスク、軍刀、「南部銃」のパーツなどが見つかっている。硫黄島には、忘れ去られてはならない大勢の戦死者がいる。日米はそんな島で毎週末、ソフトボールを楽しみ、お辞儀を交わしているのだ。

    写真:Yomiuri weekly No.67
    Japanese and Americans now battle on the softball diamond…(Pacific Stars and Stripes)
    写真:かつての激戦地で、友情が培われていた。米軍と海上自衛隊のソフトボール大会(1984年3月7日付星条旗新聞から)

    ドレイク記者は「スギハラ中尉」の日記に触れているが、原本の所在は不明だ。しかし、その英訳文は、激戦の「一日一日」を伝える貴重な史料として、米軍が保存している。厚生労働省によると、硫黄島の死没者名簿には「杉原全龍」「杉原金龍」の二つの名が見られるが、「スギハラ中尉」と同一人物かどうかは不明という。激しい戦闘で、日米ともに大勢の兵士が散っていった硫黄島。ドレイク記者は、擂鉢山に目をやりながら、日米間にあるのは、”遺恨”だけではないかと考えた。しかし、日米が友情で結ばれていることを週末のソフトボール大会が物語っていた。

    兄を殺した旧軍人との再会

    日米開戦(41年)の前に日米が激突したことがある。満州事変さなかの32年、中国・蘇州の上空でだった。ドレイク記者は、この空中戦で旧日本海軍パイロットに兄を殺されたエド・ショートさん(当時74歳)に84年に会っている。ショートさんは兄を殺した日本人と再会するために、米ワシントン州から東京を訪れていた。ショートさんは77年に日本人とハワイで顔を合わせて以来、「大の親友」になっていたのだ。そう聞いて驚いたドレイク記者は、「兄を殺した男をゆるし、その男と友情で結ばれることがあるのか」と問いかける。その答えが、この友情物語になった。ショートさんは米占領軍の一員として日本に滞在したこともある元空軍大佐から、「お兄さんの戦闘機を撃ち落とした男に会ってみないか」と誘われ、即座に会うことにした。そうして、77年に出会いが訪れた。「時の流れは人の心を和らげるものです。憎しみはなかった。その男は任務を遂行し、兄をそうした。それだけのことです」とショートさんは話す。そして、7年後、二人は再会した。ショートさんは都内のホテルで、その男が語る。”真相”に再び、耳を傾けた——。

    1932年2月22日。旧日本海軍のパイロット、生田乃木次《いくたのぎじ》大尉は、10年後のミッドウェー海戦で撃沈されることになる空母「加賀」の艦上から発進した。複葉機を操縦し、編隊を指揮していた。生田大尉は江田島(広島県)の旧海軍兵学校出身で、将来を嘱望されていた。しかし、その日の任務は、「単なるパトロールで、攻撃を意図した飛行ではなかった」(生田さん)ふと下のほうを見ると、ボーイング社製P-12戦闘機1機が、低空から急接近し、機関銃をぶっ放してきた。生田大尉は素早く反応し、編隊を離れて急降下し、反撃を開始、銃弾を受けたP-12機は激しくスピンしながら、そのまま墜落した。わずか2分30秒間の出来事だった。生田隊は全機帰還したものの、乗組員の1人が死亡、もう1人が重傷を負った。

    信じがたかった”武勇伝”

    ショートさんは兄の死について、周囲から、こう聞いていた。8歳年上のロバートさんは陸軍航空隊の予備軍で、中国政府に米国製のP-12機を売るために、現地に駐在していた。生田隊と鉢合わせになった日は、商品であるP-12機を操縦して、蘇州に届ける途中だったらしい。蘇州で行われた葬儀で、新聞特派員たちはショートさんに、兄の”武勇伝”を語った。「彼は飛行機が蘇州で停車している列車を攻撃すると思った。軍用列車ではなかったから、それを阻止しようとしたんだ」「6機中4機を撃ち落として、5機目を強制着着陸に追い込んだが、最後の1機にやられた」そんな話は、兄が有能なパイロットだったとしても、にわかに信じがたかった。「遺族を慰めようと思って、あんな話をしたのでしょう」(ショートさん)単独で旧日本軍に向かって行ったロバートは、中国で英雄と見なされた。ショートさんは、そんな兄が遠い存在に思えていた。それだけに”伝説”ではなく、事実を語ってくれる生田さんとの出会いがうれしかった。「彼は勇敢に戦った」生田さんが語ったこの言葉で、ショートさんにとって兄のロバートは英雄になった。一方、生田さんにとっては、ロバートは死んではならない男だった。これがきっかけで生田さんは戦うことに嫌気が差し、退役を申し出た。日露戦争の英雄で、当時、旧日本軍の元老死的存在だった東郷平八郎提督が直々に引き留めたが、聞き入れなかった。「戦争が嫌になったのです」(生田さん)生田さんは軍服を脱いだ後、運輸省に入り、退官して三つの保育園を経営している

    写真:Yomiuri weekly No.67
    写真:1984年に東京で再会した生田乃木次さん(右)とエド・ショートさん
    (Use with permission from the Stars and Stripes. ©Stars and Stripes.)

    P-12機の撃墜は、国内では、旧日本軍が初めて敵機を撃墜したとして軍史に残る大事件だ。ロバートは「米軍人義勇飛行士」として、日米開戦前から日本でも知られていた。そのてんまつを紹介した記事の末尾で、ドレイク記者は、「ロバートの英霊は、彼を殺した男によって慰められている」とコメントしている。生田さんは毎年、撃墜の日(2月22日)に、供養を怠らなかったのだ。しかし、第二次世界大戦ぼっ発で、生田さんは再び軍に戻った。戦意を失っていた生田さんは、どのような心中で、米国と戦ったのか…。終戦時は少佐になっていた。終戦で日米の戦いが終わり、軍国主義はついえた。大きな垣根が取り払われたからこそ、ショートさんと生田さんは戦後、出会い、友情をはぐくむことができたのだ。ドレイク記者は、そう考える。「教育こそ大切」と千葉県船橋市で保育園経営に取り組んでいた生田さんは、2002年2月22日、97歳の生涯を閉じた。偶然にも、ロバートの死から70年後の同じ日だった。

    写真:Yomiuri weekly No.67
    ハル・ドレイク記者(島崎哲也太 撮影)

    掲載記事:読売ウイークリー 第67巻 第35号 通巻3036号【読売新聞東京本社 2006.08.13】


    後日談:「読売ウイークリー連載記事の元になったハル・ドレイクさんの原稿が日本語翻訳されて出版されることになりました。」

    『日本の戦後はアメリカにどう伝えられていたのか』(著)ハル A.ドレイク(翻訳)持田 鋼一郎(2008 PHP研究所)

    写真:日本の戦後はアメリカにどう伝えられていたのか | ハル A.ドレイク
    Amazonで調べる

    ハル・ドレイク氏は、スターズ & ストライプス紙(『星条旗新聞』)最高の記者だ。
    「戦後40年間にわたりその新聞を最も多く開かせた人物であり、いま彼の文章を改めて目にし、その理由がよくわかる。熱い情熱と鋭い洞察力で描かれた本書は、戦後日本の復興と日米関係の発展の様子を市井の人々の目線で見つめたい方々にとって必読の書である。」――ロバート・ホワイティング

    「英国の詩人オーデンが言うように「歴史は敗者に嘆きの声をかけても、許してもくれないし、慰めてもくれない。」しかし敗者を理解することのできない勝者ほど社会を見誤るものはないだろう。格差の拡大する社会とは、敗者の理解することのできない勝者の理解する極めて危険な社会である。敗者にも礼をもって接する日本人の伝統は、いつの間にか消されたか、消えてしまったのだろうか。」(訳者あとがきより)


  • 「昨日の敵」が見た日本[vol.02]

    『ネットワード・インターナショナル・サービス(以下、Netword)』会長、『パシフィック異文化教育アカデミー(以下、PCA)』学院長「ハロルド・A・ドレイク」がメディア掲載、取材等で取り上げられた記事を紹介致します。
    以下、掲載記事


    終戦企画 連載2
    『昨日の敵』が見た日本
    星条旗新聞元記者ハル・ドレイクの証言

    40年近く、日本の戦後を追い続けていたドレイク記者には、いくつかの幸運な偶然もあった。「李香蘭」とは1991年に劇場で遭遇した。64年には、第二次世界大戦への”導線”ともいうべき「2・26事件」の目撃者と出会った。
    構成/本誌 松浦一樹

    つくられた銀幕の女王

    写真:Yomiuri weekly No.66
    写真:米国でもシャーリー・ヤマグチの名で知られ、人気を集めた山口淑子さん。この写真は米陸軍が撮影し、1952年3月2日付けの星条旗新聞に掲載されたもの(Courtesy of the U.S.Army Japan)

    ドレイク記者が「李香蘭」(山口淑子さん)の物語を知ったのは、戦後半世紀近くがたってからのことだ。劇団四季が1991年にその半生を題材にしたミュージカルを初演したのがきっかけだった。ミュージカルを見に行った東京・青山劇場で。「李香蘭」その人の姿を見かけ、幕あいで山口さん(当時・大鷹淑子参議院議員)に思い切って話しかけた。その時の短いやり取りが、星条旗新聞に掲載した「李香蘭物語」に取り込まれた。彼にとって「奇妙で、信じられない物語」を、ミュージカルの場面をなぞりながら、日中の不幸な歴史として語った。大鷹淑子さんはミュージカルが自分の半生を伝えていると思うだけで、心苦しかった。劇中で自分は、「嫌われ者の李香蘭を殺せ!」「日本に協力した卑しむべき裏切り者に死を!」と叫ぶ中国人の群衆の前で、さらしものにされていた。終戦直後の中国・上海で、”死”が目前にまで迫っていた。舞台の上では、ぼろぼろの日章旗が打ち捨てられ、まばゆいばかりの中国旗が掲揚されている。中国の群衆は、日本に怒りをむき出しにしていた。彼らは長らく続いた抑圧に対する報復の念にかられていた。李香蘭は、女優だけが身にまとう金ぴかの衣装をはぎ取られて、よれよれの囚人服を着せられ、軍用裁判にかけられた。フランス革命時の貴族のように責任を追及され、銃撃隊の持つ処刑場に連行されていった。彼女が告発されたのは、対日協力者と見られたためだ。日本のプロバガンダ映画への出演が、”祖国”への侵略行為を美化した罪としてとがめられた。

    米兵も歌った「支那の夜」

    しかし、李香蘭は中国人ではなく日本人だった。中国東北部で生まれ、年少時から才能を認められ、演劇や映画の世界へ押し出されていった彼女は、中国人家庭に養子になり、「李香蘭」の名を与えられた。当時の日本は、支配下の国と人々を束ねて帝国を築き、「五族協和」をうたっていた。日本は娯楽の中心だった映画にそれを仕組み、李香蘭は先進的な日本の進駐で、幸せをかみしめる中国人——という役回りを繰り返し演じた。中国で中国人を装うよう強要されていたのだ。彼女の才能が日本の軍国主義者によって商品化され、彼女は”見せ物”にされていった。国籍を偽り、日本による侵略を美化することで、あがめられた「李香蘭」。豊かさと甘さに彩られた世界がでっち上げられて、日本の”善意”がもたらしたのだと宣伝された。そして、「李香蘭」は銀幕の女王になった。しかし、しょせんはでっち上げだ。虚構は崩壊し、日本の命運も尽きた。李香蘭に対し、軍政の手先となって身を売った中国人には死刑宣告あるのみ、と叫んだ検察官に、彼女は「私は日本人です」と釈明する。戸籍謄本で証明され、無罪が言い渡されるのだ。在日米軍は、李香蘭の物語は知らなくても、彼女が出演した「支那の夜」(40年、戦後「蘇州夜曲」に改題)という映画の同名主題歌は聞きなじんでいた。戦後、日本を占領した米軍兵士が替え歌にして、楽しんだ歌だったからだ。ドレイク記者が、劇場で山口さんにそれを話すと、彼女は、にこっと笑みを浮かべたという。さらに、なぜ、こんな数奇な道を選んだのかと尋ねると、「それしかなかったからです」と小さな声で答えた。終戦直後の上海の法廷で無罪となった李香蘭。しかしドレイク記者には、彼女が戦後半世紀近くたってもなお「自分」という名の法廷に立ち続けているように感じられた。

    士官宿舎と革命家たち

    写真:Yomiuri weekly No.66
    写真:1978年に返還・代替施設への移転が決まった山王ホテル(鯵坂青青撮影)

    ドレイク記者が東京・永田町にある山王ホテルを舞台にした戦前の「秘話」を知り、衝撃を受けたのは、日本が高度成長期へと邁進していた64年のことだ。米占領軍が46年に接収し、当時は米軍士官の宿舎として使われていたことから、数あるホテルのなかでも、ことさらなじみ深いホテルだった。ドレイク記者は女優・歌手の朝丘雪路さんにインタビューしようと訪れ、創業者の中谷保《なかややすし》さん(当時79歳)出会い、話しに引き込まれる。中谷さんは、それに先立つこと約30年の「2・26事件」の証人だった。

    ドレイク記者は、その出会いを基に、こう報じた。観光スポットが集まる東京を通り抜ける外堀通り沿いのビルで山王ホテルは、一時最も有名で一番目立っていた。戦争の勝者としてホテルを占領した”アウトサイダー”は、今や日米安全保障条約によって滞在を許されているテナントに過ぎない。日本に返還される時まで、米軍士官とその家族がここで歓待されるのであろう。軍服姿の男たちは、いつも歓迎されていたわけではない。この廊下は、武力で日本を改革しようと志す過激な軍人のひそひそ話で満たされたこともあった。

    ホテルが建ったのは33年。このころ辺りは、キツネが出るような原野だった。米国で学んだ中谷さんが初代支配人となったが、流ちょうな英語はあまり役に立たなかったらしい。外国人客はまれで、「南満州鉄道」(満鉄)の社員や国会議員の定宿になっていた。ところが36年のある日、見慣れない客の一団が目についた。在京精鋭部隊の皇道派の兵士たちだった。「妙だなと思いました。軍がこうして押しかけてきたことは、ありませんでしたから」(中谷さん)

    恐ろしかった「あの男」

    写真:Yomiuri weekly No.66
    写真:ドレイク記者が取材に訪れた64年当時の山王ホテル内(Used with permission from the Stars and Stripes.©Stars and Stripes.)

    そして2月26日、東京は雪が降り、そして冬景色が美しかった。しかし、夜明け前に銃声のような耳障りな音が聞こえ、中谷さんの執務室の扉は突然開いて、軍服姿がなだれ込んできた。兵士たちは礼儀正しかったが、銃剣を構え、断固としていた。「『新政府の閣僚となる将官たちのために、一番いい部屋を用意しろ』と言われました」クーデターが進行するなか、中谷さんは一人の青年将校の挙動に目が留まり、ぞっとさせられた。激高し、行動がやけにきびきびとした安藤輝三大尉だ。主導者の一人で、「我々は避けられない戦いの中にある」「正義は反乱軍の側にあってきっと勝利するであろう」と、部下たちに言い聞かせていた。中谷さんはそれを聞いて、古い考え方だと思ったが、大尉の権威は絶対的なものだった。彼はホテルの明け渡しを求め、腹をすかした兵隊に与える食料を要求した。中谷さんがおどおどしながら、「おにぎりしかありません」と言うと、大尉は「それで結構」と答えた。中谷さんは繰り返し言う。「本当に恐ろしかった」安藤大尉はためらわずに人を殺せる激情の持ち主で、日本を内戦へと導きかねない――そう思えたという。その晩、中谷さんは自宅に帰ることを許された。しかし、夜明け前には、再びホテルに戻るように命じられていた。逃げたい衝動が全身を駆けめぐったが、従業員に危害が及ぶことを恐れ、逃げはせずにホテルに戻った。クーデターは終結へと向かい、中谷さんは威厳を保ちながら死を覚悟した。しかし、ホテルを占拠していた青年将校たちは突然、去った。”要塞”の外に一人たたずんだ安藤大尉は、短銃を取り出して自決を試みた。軍の反乱「2・26事件」は、日本を揺るがしはしたが、政府を倒すに至らなかった。中谷さんの生々しい語りに、記者はその場でくぎづけとなった。歴史の生き証人に出会えた喜びを胸に、中谷さんと握手を交わし、取材を終えた。

    ドレイク記者が「2・26事件」に関心を抱いたのは、失敗に終わったものの、日本の軍国主義者たちがわずかな時間とはいえ、中毒性のある”独裁”の味を占めたと感じたからだ。中谷さんは、ドレイク記者が話しを聞いた年の12月に亡くなった。この取材以来、ドレイク記者は戦前に改革家たちに占領され、戦後は赤、白、青の三色旗を飾って独立記念日(7月4日)を祝う”征服者”たちによって接収された山王ホテルの歴史に、魅了され続けてきた。旧山王ホテルは83年に日本に返還され、士官宿舎としての機能はニューサンノー米軍センター(東京都港区)に引き継がれた。「サンノー」という名前だけが残った。80年代に入り最後の宿泊客たちが去ると、山王ホテルはその役割を終えたのだ。2004年になって、ドレイク記者は超高層ビルが立つホテル”跡地”を訪れている。高層ビル群や外国企業の看板がかつての趣をかき消し、70年近く昔、クーデターが起きた痕跡は全く残されていなかった。

    写真:Yomiuri weekly No.66
    写真:山王ホテル創業者の故・中谷保さん(安全自動車提供)

    掲載記事:読売ウイークリー 第66巻 第34号 通巻3035号(読売新聞東京本社)【2006.08.06】


    後日談:「読売ウイークリー連載記事の元になったハル・ドレイクさんの原稿が日本語翻訳されて出版されることになりました。」

    『日本の戦後はアメリカにどう伝えられていたのか』(著)ハル A.ドレイク(翻訳)持田 鋼一郎(2008 PHP研究所)

    写真:日本の戦後はアメリカにどう伝えられていたのか | ハル A.ドレイク
    Amazonで調べる

    ハル・ドレイク氏は、スターズ & ストライプス紙(『星条旗新聞』)最高の記者だ。
    「戦後40年間にわたりその新聞を最も多く開かせた人物であり、いま彼の文章を改めて目にし、その理由がよくわかる。熱い情熱と鋭い洞察力で描かれた本書は、戦後日本の復興と日米関係の発展の様子を市井の人々の目線で見つめたい方々にとって必読の書である。」――ロバート・ホワイティング

    「英国の詩人オーデンが言うように「歴史は敗者に嘆きの声をかけても、許してもくれないし、慰めてもくれない。」しかし敗者を理解することのできない勝者ほど社会を見誤るものはないだろう。格差の拡大する社会とは、敗者の理解することのできない勝者の理解する極めて危険な社会である。敗者にも礼をもって接する日本人の伝統は、いつの間にか消されたか、消えてしまったのだろうか。」(訳者あとがきより)


  • 「昨日の敵」が見た日本[vol.01]

    『ネットワード・インターナショナル・サービス(以下、Netword)』会長、『パシフィック異文化教育アカデミー(以下、PCA)』学院長「ハロルド・A・ドレイク」がメディア掲載、取材等で取り上げられた記事を紹介致します。
    以下、掲載記事


    終戦企画 連載1
    『昨日の敵』が見た日本
    星条旗新聞元記者ハル・ドレイクの証言

    第二次大戦後の日本で40年にわたって、”戦争の残影”を追い続けた米国人ジャーナリストがいる。在日米軍向けに発行されている星条旗新聞の元記者、ハル・ドレイクさん(76)だ。ドレイクさんが報じた物語には、戦争の暗い記憶にさいなまれる日本人の姿があり、憎しみを超えて培われた日米の友情がある。それは、われわれには見えなかった。もうひとつの戦後ニッポンでもあるだろう。まずドレイクさんが語る自らの半生の物語に耳を傾けたい。
    構成/本誌 松浦一樹

    写真:Yomiuri weekly No.65
    写真:40年間、日本の戦後を見つめてきたハル・ドレイクさんと夫人の和子さん(都内のホテルで、島崎哲也太撮影)

    日本で最初に書いた記事は、韓国の戦争遺児に関するものでした。朝鮮戦争(1950〜53年)の後でしたからね。日本人とアメリカ人の間に生まれた子どもたちのために開設された大磯町(神奈川県)の「エリザベス・サンダース・ホーム」についての記事も駆け出しのころに手がけました。星条旗新聞は米国の南北戦争(1861〜65年)に創刊された米国の準機関紙。日本では終戦後、米国による占領統治の開始とともに発行されるようになった。ドレイクさんは、1956年から95年に引退するまでの40年間、日本のニュースや話題を書き続けた。日本とかかわるようになったのは、ほんの偶然が重なったにすぎない。もともとの出身は、米ロサンゼルス。日米開戦時は11歳のとき、母親の知人宅で「真珠湾奇襲」(現地時刻1941年12月7日)を知った。

    駆け出しの1950年には「エリザベス・サンダース・ホーム」も取材した

    写真:Yomiuri weekly No.65
    写真:1955年10月に、神奈川県大磯町の「エリザベス・サンダース・ホーム」を訪問された昭和天皇・香淳皇后両陛下。ドレイクさんもそのころ、この施設を取材した(読売新聞 撮影)

    あの日のことは、忘れられません。母親の上司宅にいました。前の晩、家族で夕食に招かれ、大人たちは子どもたちを寝かしつけると、夜通しトランプを楽しんでいました。朝、起きて表に出てみると、いとこが「戦争勃発だ!」と大声で叫んでいたのです。最初は何のことかよくわかりませんでしたが、いとこが「ジャップが真珠湾を爆撃したんだ」と教えてくれました。当時、日本について知っていたのは「サクラが咲く」といった程度のこと。日本が米国にどんな恨みを持っていたのか、わかるはずもなかったのですが、あの日を境に、私たちは太平洋と大西洋の向こう側に敵(日独)を持つことになったのです。翌日、学校でラジオを聴きました。ルーズベルト大統領が「12月7日は恥辱の日として記憶されるだろう」と演説した。あの有名な放送です。


    軍用船から仰いだ富士山

    終戦後の51年3月5日、新聞配達をしながら大学生活を送っていたとき、一通の令状を受け取った。この朝鮮戦争への召集によって、日本経由で戦地に赴いた。これが日本との初めてのコンタクトだった。初めて富士山を仰いだのは、米海軍の輸送船「サダオ・ムネモリ号」の甲板からでした。ムネモリ一等兵は第二次大戦中、イタリア戦線で勇敢に戦い、名誉勲章を贈られた日系人兵士。その栄えある名前を冠した軍用船で日本にやってきたのです。横浜から陸路、佐世保(長崎県)に向かい、そこからまた古い貨物船に乗って、韓国、釜山へ。さらに列車に乗り換え、戦場に向かいました。陸兵だった私たちは、砲弾を放ちながら朝鮮半島を北上し、38度線(後の非武装地帯)を越えて、北朝鮮に進軍しました。その間、敵の砲弾を3発食らいましたよ。長い戦争でしたから、5日間の中休みを与えられ、日本に遊びに行くことを許されました。横浜・本牧で仲間とビールを飲みながら、どんちゃん騒いだものです。従軍は1年ほどでしたが、軍務を全うし、釜山からまた軍用船に乗って帰還しました。

    朝鮮戦争から帰還したドレイクさんは、地元タブロイド紙「ロサンゼルス・ミラー」で働き始めた。幼いころから「文章を書くことだけは得意だった」が、ミラー紙では”走り使い”ばかりだった。新天地を求めたドレイクさんは56年、星条旗新聞記者として東京に赴任した。戦争に行って帰ってきた大人なのに、ミラー紙では、ただのコピーボーイ(走り使い)。そこでジャーナリストになれるとは、思っていませんでしたよ。ある晩、くさくさして、ビールを飲んでいたら、星条旗新聞の求人広告が目に入りました。記者を募集していたのです。投げやりな気持ちで応募したのですが、すぐに採用されて、気が付いたらもう(星条旗新聞社のある)東京・青山霊園前に着いていました。まだ、26歳でした。

    26歳のとき、記者として新天地を求めた先が日本だった

    写真:Yomiuri weekly No.65
    写真:赴任当時のドレイクさん(1956年撮影)

    到着して、すぐに都内を歩いてみたときに、ある場面が妙に印象に残りました。外堀通りの辺りでしたか、学生たちが長い列をつくっていた。ジャン・ギャバン(仏俳優)の新作映画を見たくて、順番を待っていたのです。日本人の洋画好きには、驚かされました。私は米軍基地の外に住むことになりましたが、基地の中は酒が格安だったので、時々寄っていました。駐留米軍には当時まだ、占領軍メンタリティーというのか、どこか日本人を見下しているようなところがありました。ある時、バスに乗っていたら、まだ10代の米国人少女が日本人運転手を「ボーイさん!」と呼びつけていたので、蹴り飛ばしてやろうかと思いましたよ。今も、ごくたまにですが、そんな場面に出くわすことがあります。


    安保闘争を追った60年代

    60年代に入ると、安保闘争のデモを取材することが多くなりました。東京・青山辺りでしたか、デモが車をひっくり返したり、火をつけたりする。そこに機動隊がやってきて、危うく巻き込まれそうになったものです。警察は学生たちを引きずり回し、荒っぽく振る舞っていましたが、よく訓練されていた。まるで、軍隊のようでしたね。65年後計5回、ベトナム戦争報道にも加わりました。70年に戦地取材に出かけた折には、ベトコン(南ベトナム解放民族戦線)に撃ち殺されそうになったこともあります。日本人の妻、和子さんとは、米軍がベトナムから完全撤退した73年に出会った。ベトナムからの最後の帰還兵が横田に到着するというので、取材することにしていました。時間に余裕があったので、バーに立ち寄ったら、とある女性が学校の仲間とそこにいました。ここにいる和子です。離婚経験があったので、二度と結婚はするまいと思っていましたが、和子とは「また会いたい」と思った。それからデートを重ね、74年に結婚したのです。日本滞在中、米国に帰ろうかと悩んだことがありました。しかし、帰国したところで仕事のあてはないし、日本で結構な生活をさせてもらっていた。妻の支えなければならない、という思いもありましたしね。結局、そうこうしているうちに、長い年月が過ぎてしまいました。戦後、かつて「敵国」同士から友好国へと移り変わった日米。ドレイクさんが記者として、はざまに見たものは何だったのか、次回からさらに詳しく紹介する。

    写真:Yomiuri weekly No.65
    写真:今も在日米軍向けに発行されている星条旗新聞

    掲載記事:読売ウイークリー 第65巻 第33号 通巻3034号【読売新聞東京本社 2006.07.30】


    後日談:「読売ウイークリー連載記事の元になったハル・ドレイクさんの原稿が日本語翻訳されて出版されることになりました。」

    『日本の戦後はアメリカにどう伝えられていたのか』(著)ハル A.ドレイク(翻訳)持田 鋼一郎(2008 PHP研究所)

    写真:日本の戦後はアメリカにどう伝えられていたのか | ハル A.ドレイク
    Amazonで調べる

    ハル・ドレイク氏は、スターズ & ストライプス紙(『星条旗新聞』)最高の記者だ。
    「戦後40年間にわたりその新聞を最も多く開かせた人物であり、いま彼の文章を改めて目にし、その理由がよくわかる。熱い情熱と鋭い洞察力で描かれた本書は、戦後日本の復興と日米関係の発展の様子を市井の人々の目線で見つめたい方々にとって必読の書である。」――ロバート・ホワイティング

    「英国の詩人オーデンが言うように「歴史は敗者に嘆きの声をかけても、許してもくれないし、慰めてもくれない。」しかし敗者を理解することのできない勝者ほど社会を見誤るものはないだろう。格差の拡大する社会とは、敗者の理解することのできない勝者の理解する極めて危険な社会である。敗者にも礼をもって接する日本人の伝統は、いつの間にか消されたか、消えてしまったのだろうか。」(訳者あとがきより)